自分のことをよくわかっているのは

「自分のことをよくわかっているのは自分である」という言葉は、正しかったり、時々正しくなかったりします。

「自分のことをよくわかっているのは自分である」という言葉が正しい時が、どういう時かというと、それは「自分の気持ち」についてです。

これは、どういう意味か解説しますと…

私個人が心理学の専門である臨床心理士だとしても、みなさんの心は皆さん以上には、わからない…ということです。では、どうして心理学の専門家は、人のことがわかったのようにいられるかというと、「心の仕組みや機能」について、学んでいるからです。例えば、「〇」という形を、10人の知らない人たちに同時に見せ、そこにあなたがいるとします。

「この形は何ですか?」と質問して、9人がまじめな顔をして「六角形です」と言ったとします。

あなたは、「いや、これは丸ですよ」と絶対に言い切れますか?「言い切れる」という方もいますが、ほぼ6割の方は、言えなくなるのです。

そうしたら、「あなたは、本当は丸だと思っていたけど、言えませんでしたよね」ということは、心理学の専門家として分かります。心理学というのは、簡単に言えばそういう例をたくさん知っているということです。

また、カウンセリングは、カウンセラーが、相談に来た方の心を修正するわけではありません。

基本的には、相談に来た方が、自分の知らなかった自分に気づいていったり、知ったりすることですから、やはり、心ということについては「自分のことをよくわかっているのは自分」なのです。

では、他者のほうが自分のことについてよく知っている、というときはあるのか…?

 

残念ながら、あります。

 

「いや~、あの人、ちょっと香水きついよね」

「なんであの先輩は、あんな言い方しかできないんだろうね」

「あの人って、いつもイライラしているよね」

これらは、他者から見たほうが、よく見えている例です。もし、自分がこういうことを思われているとしたら、ちょっと嫌ですよね。

そして

もし、自分が気づいていない自分の欠点があるのであれば、陰で言われているより、教えてもらいたいと思いませんか?それが「人の話を聞く」ことの大切さです。

「自分のことは、自分が一番よくわかってる」

確かに、ご自身の心の中身については、だれも侵害されることなく、ご自身が一番よく知っていることは間違いありません。けれども、それ以外のことは、他者がよく知っていることも多いのです。

なぜ病院に行くかというと、自分の体のことでも、自分ではわからないからです。ですから「もしかしたら、自分は自分のことをわかっていないかもしれない」と思ってみることも時々は大切です。

しかし、それは「自分が他者からどう思われているか心配」ということとは違います。それは、「他者の目」を気にしていることであって、「自分がわかっていない」こととは、別だからです。

正しい人

「ちゃんと仕事していますか」

「ご飯は健康的なものをとって、運動をしていますか」

「任されたことに責任をもって、やり遂げていますか」

「人にやさしく、自分に厳しくしていますか」

「悪いことには一切興味を持たず、法律を順守して、約束をすべて守っていますか」

「人の気持ちを思いやって、困っている人を助け、善行をしていますか」

 

…もういいですよってなりませんか。

 

「わかっちゃいるけどやめられない」みたいなことは、必ずだれにでもあるのです。例えば、皆さんの家族、同僚、友達に「これはやめたほうがいいよ」って思うことをしている人がいるとします。もちろん、法律的に明らかにダメなことは、やっぱりやめたほうが良いと思いますが、「法律」とまではいわないけど「ちょっとそれはさぁ・・・」っていうことを、喜んでやってる人っているものですよね。

趣味にはまりすぎ、とか、飲み歩きすぎ、とか、人の批判しすぎ、とか、服のセンスなさすぎ、とか、何でもいいですが、そういう人たちに、先ほどのような「正論」をぶつけたとしても、まったく効果はありません。

カウンセリングに来る非行少年なんかに「ねえ、非行はやめて、お父さんお母さん心配させるのやめようよ」と話しても、まさに

「うっせーわ」

と言われて、あとは一切お話しできなくなってしまいます。「なんで、そういうことするの」も、答えてくれないでしょう。何故そうなるのか?

まず、「これはおかしいよ」という私たちの態度に問題があるからです。

自分のことに置き換えてみてください。「あなたはおかしい」「あなたは正しくない」という前提でかかわってくる人に、心を開いてお話ができますか?

私たちは、人の心を差し置いて「善悪」「損得」で話を勧めようとすることがありますが、おおよその場合、そうした対話は失敗に終わります。

他者と対話するときに、第一に必要なのは、「ジャッジ(審判)」ではなく「理解」だからです。あなたが本当に正しい人ならば、まずは相手を理解できるかどうかにチャレンジしてみませんか。

原因と結果

緊急事態宣言の続く地域や、局地的な豪雨にあたる地域など、オリンピックの開幕も近づいているようですが、落ち着かないような雰囲気が見られます。私も含め、読んでいる皆さんも間違いなく人間だと思われますので、いろんな状況にいろんな感情が動くのはもちろんのことです。

SNSなどを見ていますと、『なんでそういうことするの』というようなことをあえて投稿していたり、わざと人の不安や怒りを煽るような発言や行動をして、その反応を集めることによって注目されようとする炎上商法など、私たちの『感情』を意図的に不快にさせる経済活動も見られるようになってきました。

これは、本来、人の欲求を満たしたり、不足を補ったりすることで対価を得る、という『サービス』の原則を覆すもので、サービスの提供側と需要側の間に『情報』という見えない価値が発生していることによるのでしょう。外出や、他者との交流が思うようでない時であればこそ、そうした「サービス」のゆがみは人をいらだたせるものになるでしょう。

また、すでに経験されている方も多いかもしれませんが、大きな会社でも在宅ワークなどが浸透したかと思いきや、出勤が再開され、また在宅ワークに逆戻り、など落ち着かない就労状況の方もいらっしゃるでしょう。私個人は、逆にコロナが蔓延していても、出勤しなければならない仕事に就いていますので、これはこれでまた、在宅ワークがうらやましかったりします。

 

さて、いろいろな状況と、それに対する心の動きを書いてきましたが、これらはいずれも「原因」となる状況があり、それに対して「心が反応する」ということで成り立っていますね。だとしたら、状況が変化しないと、私たちはいつまでも「不機嫌」です。

もう一歩、進めてイメージしてみましょう。私たちは、「どうにもならない状況」や「ねじまがった情報」のなかに置かれて「不機嫌」になっているとしましょう。あなたは、どんなことを思い、どういう表情になり、どんなことを心の中で思い、行動しますか。その、あなたの行動すべては、次の結果の「原因」になります。

「あなたが不機嫌な顔をしているから」、周りの人を不快にさせるかもしれません。

「あなたが、ドアをパタン、とイライラして閉めた」ので、オフィス全体が嫌な雰囲気になったかもしれません。

「あなたが、電話対応で乱雑な対応をした」ので、お客さんは「こんなお店にもう行かない」と思ったかもしれません。

実際、どんなに気を付けていても、なにか間違ったり、失敗したりするのが、人間のすることです。

「ああ、不快だなあ・・・」と思うことは、世界の中には多々あります。これは間違いありませんから、その気持ちを殺してしまう必要はありません。

でも、何かの「結果」として自分が不機嫌になっているとしても、その不機嫌が、更に新しい不機嫌の「原因」とならないようにしたいものです。

窮屈なときに考えること

コロナの影響もあって、いろいろと窮屈な思いをしている方も多いかもしれません。

私個人は、ずいぶん田舎に住んでいますが、人口が少なければ少ないで、噂はすぐに広まり、「どこの家でコロナが出た」というくらいならまだしも「夜の店で酒を飲んで遊んで歩いているからこうなった」とか、あることないこと広がったりします。

これもまた窮屈なことですよね。

家の中に居るといると、今度は、家族同士でも細かいことが気になったりするかもしれません。

「洗面のあとに水場が拭かれていない」とか「ティッシュが空になっているのに箱をかえていない」とか、日常の生活の細かいところも、気になったりするかもしれません。

例えば、

「靴はちゃんとそろえて脱ぎなさいよ」と、子どもに対して思ったとき、あなたならどうやって子どもに伝えますか?

「玄関がぐちゃぐちゃだとみっともない」というのもあるかもしれません。

とりあえずこんな風に言ってみたらどうでしょう。

「自由になるためには、靴はそろえたほうがいいよ」どういう意味か、わかるでしょうか。

生活を整える、ということは、先ほどのように、面倒で窮屈なことも多いかもしれません。

けれども、例えば靴が揃えてあったら、出かけようと思ったときにすぐ靴を履いて出られます。

あっちこっちに家族の靴が散らばっていたら

「急いでいるのに!!」

とイライラするし、時間もかかるし、これは本当に不便、そして不自由です。

歯磨きをしっかりする習慣がついていたら、虫歯になって痛い思いをしたり、歯医者に行く時間や費用から自由になれます。

全部とは言いませんが、「面倒くさいこと」をやっておくと、その分、自由になれるのです。

また、面倒くさいことをいろいろやれる人は、「できる人」になり、信頼されます。

ポイントは、できていない人のことを指摘するのではなく、「自分は」面倒くさいことをシンプルにやることです。

そして、それが習慣になったら、今と違う世界になっているかもしれません。

 

「先生、生きている意味って何なんですか」

私たち一人一人は、なんのために生きているのでしょう

これは、実に難しい質問です。

学校の先生なんかに、中学生とか、高校生の子が聴くと「これからの人生でそれを見つけて下さい」なんていうことを言ったりします。

なんかちょっとずるいですね。そういう時は、「先生はなんで生きているんですか?」と聞くと、もしかすると、あまりはっきりした答えがないかもしれません。

また、もしかすると「先生が、自分のこととしていうなら・・・」と、ご自分の考えを言って下さるかもしれません。

私個人の「生きる目的」は何か、と聞かれたら、私はいつも答えを用意していて「人と出会うためでしょう」ということにしています。もちろん「今のところ」です。

なぜ、そう思うのか、というと、私個人は、そんなにたいした能力もなく、これと言って何かすごい功績を世の中に残してきたわけではありませんから、正直に申し上げて、「私は世の中役に立っている」ということを大きな声で言える自信はありません。

だったら、生きている意味はないかというとそういうわけでもないのではないかと思っています。皆さん一人一人もそうです。

なぜかというと、

例えば、世の中に、人が一人しかいなかったら、それがどんなに優れた人であったとしても、社会というものは作りません。一人では文化も文明も作れません。

人間は、もし一人であれば、その人がどんなにすごい人であっても、何もできないのです。

もし、私自身がなんていうことがない人であるとしても、私がそうであったように、他の「そこらへんの人」たちから影響を受け、他の普通の人たちに影響を与え、その人たちがちょっとすごい人たちと関わっていたり、すごい人たちに影響されて社会をつくったり、そういう「人と人のかかわり」によって、世の中が作られるのです。

ですから、私たち一人ひとりの生きる目的の多くは、人と関わることによって達成されると考えています。すごい人になろう、と思っていたら、それはまた別の目的があるかもしれません。

人と人とのかかわりは、良い思い出ばかりではなく、辛いものがあるでしょう。

でも、そのかかわりは、どこかに影響を及ぼしていますし、それが無かったら、今この社会とはなにか違うものになっていたかもしれません。

今の世の中が、良いとか悪いとかいうことはわかりません。

もし、悪いと思うなら、良くなるようにしていって、人と関わっていけば、そういう流れが作れるかもしれません。私たちは、良いときも、辛いときも、誰かに伝えることをしたときに、必ず誰かに影響を与えています。

 

まあ、多分、ですけど。

 

何人で生きているか

「あなたは何人で生きていますか」と聞かれたら、何と答えるでしょうか。

「質問自体の意味が分からない」と思うか「一人暮らしなんで一人です」と答えるか

「大勢の人にお世話になっているんで、たくさんの人と生きています」みたいなことをいうでしょうか。

どれが正解で、どれが間違いということではありません。ただ、このところ「自立」ということがとても両極端にとらえられている印象があります。

「子どもが独り立ちして家を出たんですよ」ということをお話しする方の「独り立ち」というのは「経済的な意味で仕事を始めた」ということでしょう。また、他方で

「あんたはもう大人だから、お父さんとお母さんは知りません」と突き放してしまう家庭も時々見られます。これもまた随分極端ですね。

心理学的に「自立」という言葉が定義されているわけではありませんが、心理学者で文化庁長官も務めた河合隼雄先生の言葉をご紹介すると

『自立ということは、依存を排除するということではなく、必要な依存を受け入れ、自分が依存していることを自覚し、感謝していることではないだろうか』と述べています。

なんだか、はたから見ていてべたべたしすぎの親子関係や、逆に自立させようと突き放しすぎの親子、いずれも「依存」か「孤立」かの両極になってしまうので辛くなるのかもしれません。

親子関係に限らず、私たちの人間関係というのは、お互いに必要な程度の依存が存在しています。依存という言葉がとっつきにくければ、信頼とか、あてにしている部分とか、そういうものかもしれません。

よく、小中学生の保護者の方とお話をしていて

「お子さんに、どんなふうになってほしいですか?」と聞くと、結構多くの保護者の方が

「一人でしっかり生きていけるように」

「人に迷惑をかけないでくれれば、どんなふうでもいいです」

みたいなことを言います。

けれども、本当であればそれは難しい、というか、本当に望ましいか微妙なところもあり

「人と一緒に生きていけるように」

「迷惑はかけるだろうけど、人と支えあって生きていってくれれば」

ということのほうが、より現実的なのではないかと思うことがあります。

「あなたは何人で生きていますか?」

負けない方法はあるか

物事の判断の仕方には、それぞれくせがあって、多くの人が良くやると思われるのは「損得」での判断でしょうか。

「こうやったら得だから。これだと損だから」

「これだと自分ばかりが大変だから」

といったように、目の前の物事を判断するかもしれません。

また、職場の中では、「業績」とか「成績」みたいなものが重視されている場合もあるかもしれません。

「〇〇の販売が一位だった」とか

「〇〇の満足度が高かった」など

いろんな尺度があるでしょう。

ほとんどの場合、私たちは「負けたくないなぁ」「どうやったらうまくいくかなあ」と考えています。仕事ですから、お金はもちろん、地位にも、社会的な意味でもそのほうが良いですものね。

同様に、無いほうが良いけれども負けたら一大事、ということの代表が「戦争」でしょう。実際の国と国が命を懸けて戦うような戦争は、無いほうが良いですが、私たちの生活の中での仕事、というのは、ある側面では「戦い」を含んでいるものかもしれません。戦争というのは、本当にシビアな損得で動いています。

これも、大昔から人々の悩みでしたので、優れた戦い方をして、できるだけ優位に立てるようにする方法はたくさん考えられてきました。そのために「兵法」というものがあり、どうやって敵と戦ったら勝てるのか、ということが研究されてきました。

例えば、織田信長が今川義元を倒した「桶狭間の戦い」などのように、大軍に小さな軍勢で立ち向かって勝利を収めるというのは、なんだかすっきりするものかと思います。これも、単に思い付き、とか、特攻、ではなく「兵法」に基づいていると考えられます。

どの「兵法」にも共通して書いている、もっとも重要なことがあります。

それは

「負けるとわかっている争いはするな」

ということです。なんとも弱い言葉に聞こえますが、続きがあります。

「もし、負けずに生き残ることができているとしたら、いつか必ず勝てるチャンスがある。負けて命を落としてしまえば、それまでである」

私たちの最も「得」となっているものは「生きていること」です。

もし、現代の社会で「死ぬほどつらい」戦場にいるとしたら、生き残ることを選択して、誰かに助けを求めてみてください。そうしたら、いつか勝ち残れます。

出来事に良し悪しはない

人間の持っている心というのは、「ヒト」というものが発生したあたりから、それほど大きくは変化していないのかもしれません。

少なくとも、数千年も前の文明の墓のあとから、お花を供えた形跡が見つかったりするのを見ると、お花をきれいだと感じたり、それを死者に備えようとする気持ちなどは、今とそれほど変わらないことがわかります。

同様に、私たちの悩みというものも、昔から大きく変化はしていません。もちろん、現代ならではの「テクノストレス」的なものとかは別かもしれませんが、それだって元をただせば人間関係や仕事のことということができるかもしれません。

細かく見れば、悩みというものは千差万別、人それぞれですが、「〇〇の悩み」という少し大きな問題としてとらえれば、誰一人として経験したことのない悩み、というものは、おそらくないでしょう。

中国の古い書物で「易経」というものがあります。これは、現代でも「占い」などに使われていることがありますが、大昔の意味で言うとこれは「占い」ではありませんでした。「こういうことが起こる」ということは「こういうことにつながっている」という物事の筋道や法則を事細かに描いてあるのが易経です。

普通、おみくじなどでは大吉であれば、これからいいことが起こりそう、凶であれば、よくないことがありそう、と考えがちです。けれども、どうやらそう捉えるのではなく、『今、自分が行っていることは、世界に対してどのようなことであるのか』ということらしいです。

ちょっと難しいですね。「今のままの行動で、次に起こることはこれ」といった感じでしょうか。「待ち人 来るが遅し」とか書いてあると、「良くないこと」ととらえがちですが、おみくじには、良いとか悪いとかは一切書いておらず、「勉学に励みなさい」とか「目上の人を大切にしなさい」とか、そういうことが書いています。

冒頭で書いたように、「昔から人の悩みはけっこう共通です」。ということは、「悩みとなる状態」が発生する状況も、そんなに変わらないのです。

『こうしたら』→『こうなる』という流れがありますから、「食べて運動しない」→「健康に良くない」。『適度な運動をしてストレスをためない』→『健康的』くらいのシンプルなことは、昔からわかっていることなのです。

ですから、私たちは、目の前で起こっている出来事について、感情で反応しがちですが、ある程度感情で体験して、味わったら、「さて、これはどんな意味があるんだろうか」とちょっと視点を変えてみることも有効な手段です。

先日、私の職場近くで雷が発生し、職場内の火災報知器が通電して壊れるという出来事がありました。それ自体は「困ったこと」として受け取れますが、「これはどうもおかしい。何か他にもきっと変わったことが有りうる」と思い、職員に警戒を呼びかけました。

その数日後、近隣地域でコロナウイルスの感染が複数確認されたのですが、事前に引き締めをかけていたため、事前にみんな備えていたので難を逃れたということが有りました。

「これは、何を意味しているんだろう」と、ちょっと離れてみると、問題に埋もれずに済むことが有るかもしれません。

逃げるときは振り返らない

仕事は実際の「戦い」ではないのですが、勝負だったり駆け引きだったりすることが少なくないようです。例えば、自分の会社 対 他の会社の場合は、自分の周りにはたくさんの仲間がいて、上司もいますから、すべてが自分自身の責任ということは、ほとんどないでしょう。また、重要な判断については、むしろ自分自身とは違うところで決められていることもあるかもしれません。

他方、自分自身が孤軍奮闘しなければならないような状況というのも、人によっては経験します。

会社の人たちとどうもうまくいかない

家族との関係がなんだかぎくしゃくしてしまっている

自分の失敗は自分の責任であることを認めても、なかなか状況が好転しない

…など、自分自身で効果的な対処が見いだせないまま、ずるずると時間だけが経過していくような場合です。

こうした際は、まずは誰かに相談する、ということが一番なのですが、身近な人が理解を示してくれそうにない場合などは、そうした状況が「悩み」「ストレス」になっていってしまいます。

気を付けなければならないのは「必ずしも自分が悪いのではないけれども、だからと言ってすべて相手が悪いというわけでもない」ことです。『いろんなことが悪化してしまっている状況』では、「悪者探し」をしてしまうことが多いものです。

「この件については〇〇が悪い」となると、結論がわかったような気がして、周囲がそうした結論に同調することがあります。このことを社会心理学では『スケープゴート(いけにえの羊)』と言います。

学校でなかなかなくなることがない「いじめ」の問題も、そもそもの人間集団の機能が働いていることも言われていて、結果として、いじめたほうも、いじめられたほうも傷つくということがよく言われます。

そんな状況を感じて、しかも、自分の体や心に影響が出てしまうようなときはどうしたらよいか。

いちもくさんに逃げましょう。

「逃げるのは良くないことだ」

「逃げないで向き合わないと」

と思ってしまうのも理解できます。

もちろんそういうこともあるのですが、体や心が持たないような場合は話が別です。

「振り返るな 振り返るな。振り返ってもそこには夢がない」と寺山修司は言いましたが、逃げると決めたときは一目散に逃げましょう。

でも

やっぱり、急に家からいなくなったり、会社を無断欠勤したりするのは気が引けるはずです。当社の相談サービスは、「逃げたいけど・・・逃げられない」という方の相談に応じています。

ちょっとの前に、「逃げるは恥だが役に立つ」なんていうタイトルのドラマが流行りました。カウンセリングを利用するくらいのことは、とても役に立つです。

選択を変えたら、世界が変わる

日本は『少子高齢化社会』と『人口減少』の社会に突入しています。

これはどういうことかというと…

今までのように、経済発展が続いて、国の税収がどんどん増えて、公共サービスとしていろんなことを支援してもらえたり、道路を作ってくれたり、行政がきめ細やかなサービスや施設整備をしてくれる、という時代が終わりに近づいているということです。

わたしたちは、日常、『仕事』をしています。それはやりがいなどももちろんあると思いますが、「生活のために必要である」と感じている方が多いのではないかと思います。もしかすると、中には、生活には困っていないけれども、生活のハリのために働いているという人もいるのかもしれません。

わたしたちは、働いている間は「地域」や「家庭」にいませんから、当然その間は職場の人、仕事関係の人としかかかわりません。そうしますと、夕方以降に家に帰った時には、あえて隣近所とお付き合いはしなくてもいいように、自分のことは自分で処理して、あまり地域のことにはかかわらない、ということになっていきます。

子育てや介護なども、仕事がありますから、保育所やデイサービス、施設にお願いします。難しい洗濯はクリーニングに出しますし、帰宅が遅くなればデリバリーを頼みます。買い物はパソコン画面で、通販で済みます。

「これいいな」

と思って買った家電は、一年もたつと新しいものがどんどん出ていて、今のモノに満足できなくなり、次々便利なものを買いたいと思います。そうすると、またお金を稼いで買わないといけません。

これでは、私たちはいつまでたってもお金を稼ぎ続けないと幸せになれないのです。そして「あー、疲れたなあ」「あれいいなあ。高いなあ」と言いつづけます。

これは、気づくと人生が変わりますが…

私たちの人間という生き物の楽しみはどこにあるか、というと、私たちが仕事のためにほかの人に頼んでいるところにあります。

料理、子育て、買い物、作物を作ること、魚を釣ること、縫い物、製作など

「時間がない。面倒くさい」

と思っているものの中に、本来の人間の楽しみが含まれているのです。

それらをすべて「賃金」に変えて、人に頼んでしまう場合…頼まれた人も仕事、頼んだ人も仕事、というように、すべての楽しみは「お金を稼ぐため」に置き換わってしまいます。今、人に頼んでいること、ちょっと面倒くさいから簡単に済ませよう、と思っていることをあえてやってみませんか。

もしやってみようと決めたら、余計なことを考えず、集中してやってみましょう。きっと、世の中の見え方が変わる体験になります。

私たちの人生は、本当は楽しいのです。なにか、選択を変えてみたら世界も変わります。